川合周五郎と興禅寺

川合周五郎と興禅寺

江戸中期のある夜遅く、傷を負った一人の武士が、今の上富田町市ノ瀬の興禅寺(だるまでら)の門をたたきました。故あって追手の追求を逃れて逃げてきたのだといいます。おしょうはその男を下ノ岡観音堂にかくまいました。彼は名を川合宗五良といい、観音堂で寺子屋を開いて、村人に読み書きを教え、土地に親しみを持つようになりました。ここに逃げてきたとき、妻を連れてきたともいうし、また村の娘を妻にしたともいうが、いずれにしても夫婦仲むつまじく暮らしていました。ところが、追及の手がここにも及んできました。そこで、村人に迷惑がかかってはいけないと思い他国に落ちのびることを決意しました。数年後再びこの観音堂に来ることを、約束し、暗に乗じて夫婦は別々の方向に去っていきました。その際、無事の再会を誓って、黒松と赤松を植えました。数年後宗五良は帰ってきたが、妻はまだ帰らず、出立ちの時に村人に預けた赤ん坊も病気で死んでいました。彼は再び寺子屋を続けました。しかしそのうち病気になり、一人淋しく息を引き取りました。ところが奇しくも通夜の晩、やつれ果てた妻が帰ってきました。妻は遺体にすがって泣き悲しみました。妻はまもなく仏門に入り、観音堂の堂守をして夫や子供の菩提(ぼだい)を弔いました。そのうち、この尼も夫や子供の後を追うように死にました。村人たちは夫婦の生涯を哀れに思い、黒松と赤松のそばに遺体を葬りました。この2本の松は生育して大きくなったが、根元はくっついて全く一緒になっており、2メートルくらいの高さで漸く10センチほど空き、寄り添うようにして二百年あまり生き続けてきました。これが観音めおとの松であります。ところが、近年南紀一体が松喰虫の被害を受け、このめおと松も、数回の消毒もむなしく一本は昭和45年に、もう一本は翌46年に相次いで枯死し、伐採のやむなきに至りました。従って今は見ることができません。なお、興禅寺の過去帳によれば、川合宗五良は文政2年に、妻は文政10年に死亡しているといいます。墓石の所在は不明です。

日本一の大きさを誇る達磨造
興禅
赤い達磨像
赤い興禅
布袋和尚
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