龍松山

歴史

龍松山城跡は、今は広場です。

龍松山は、今は広場です。

龍松山城は室町幕府の奉公衆をつとめた山本氏の居城です。山本忠行が紀伊国櫟原荘の地頭として入部すると、24代にわたりこの地を治めました。
なお「龍松山城」の名は2代・忠継が城を改修したときに、城内にあった巨大な老松が龍が寝たような姿に似ていたことに由来しているそうです。1585年(天正13年)の羽柴秀吉による「紀州攻め」では杉若越後守の軍勢3000に対して、城主・山本康忠はわずか300の兵で3か月にわたり徹底抗戦しましたが、最終的には和睦となりました。
しかし和睦のために大和郡山城の羽柴秀長を訪れた帰り、康忠ら13人は藤堂高虎の屋敷にて謀殺されました。現在城址は公園として整備されており、土塁や堀切などの遺構を確認することができます。
2019年(令和元年)におこなわれた発掘調査で武器や武具、生活道具などが出土し、生活の痕跡や奉公衆出身ということもあり京との交流の様子が判明しました。

説 明
龍松山城は富田川北岸の標高120mの山頂に築かれている。 山頂にある主郭と二郭は広く公園として良く整備されている。
主郭は山頂にあり、大きな曲輪で周囲に土塁が巡る。その下を取り巻くように二郭があり、山城としては曲輪の規模が大きい。東尾根には二重の堀切が残っている。
麓近くの南東に張り出した尾根の上に城主一族の石塔群が残っている。

ストーリーを聞くと、絶対悲しくなるスポットです……

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